---(引用ここから)---

<前略>

【頭の中に文章が次から次へと浮かんできて、その瞬間につかまえておかないと戻ってこない、あるいは取り戻すまでに長い時間がかかるということが、「予想」とか「漠然と」とかではなくて、はっきりと自覚するときだ。】

 これはまさに今年の元旦に実感しました。
 年越しに徹夜して、まだ空も薄暗いうちに家を出て、徒歩30分ほど離れた寺へ。川沿いの遊歩道を歩いているうちにいつしか空も白みはじめて。ふと頭の中に浮かんだ文章がやがて止まらなくなり、北風に流されてしまいそうで思わず道の真ん中に突っ立ってノートにメモを取り始めました。その出来はともかく、この時に捕まえられた文章はめでたくWeb上で公開されることになります。

 私はもともとメモを取らない人でしたが、継続的に他人の目を意識する文章を書くとなると(全然、継続できてないけど)、上記のような機会は逃せないと思うようになりました。メモで事足りる時もあるけど、文章を“そのままのカタチ”で残しておくべき場合も確かに存在します。名詞・形容詞・動詞の一つ一つがそれ以外の言葉と互換不可能なんだよね、実際。

 そして、不思議なことにこういう文章こそが人のココロに残るし、感想も頂けることが多いです。何時間もプロットを考えて文章を練って、頑張ってオチもつけた自信作よりも評判が良かったりする。これがプロではなくアマチュアである所以か...と思いつつも、悪い気はしないのは何故でしょう。

 それは、一瞬のうちにためらいなく捕まえた文章こそが、自分の混じりけのない分身だからかもしれない。ある特定の時間における、自分自身の思考の必要十分な表現。それを他人に認めてもらえることは、すなわち私自身の間接的な肯定かもしれない。なんて。そのへんのことはキミには十分に分かっているだろうけどね。

 以上はほんの数十分の間にモニタの前で考えたことをそのまま文章化してみました。思考整理も読み返しも添削もしていないので恥ずかしすぎる(笑)。少し手直しして私のDiaryに載せてみるかもしれませんが、その時は引用の許可をもらうのでよろしく。

<後略>

---(引用ここまで)---


メール本文中には「少し手直しして〜」などと書いてありますが、
結局、ほぼ送信時のオリジナル状態のままで出すことにしました。
この文章もまた私の“ある一瞬において存在した思考”ですから。

巷にあふれるサイト論にもアクセス数up技術にも全く興味ないけど、
自己表現の手段としての文章に関しては、私とて考えざるを得ません。
文章がもつ「偶然性」の存在を肯定するからこそ、
今でも文章を書くのはものすごく怖いし、常に手探り状態です。

そうそう。宛先は「啓旅社」(→http://k-ryosha.jp/)の管理人。
私の学部生時代からの友人です。


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